かかってきやがれ!

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  1.はた迷惑な転校生  

 三日ほど前。

 奈津美が親に押し付けられた買い物を済ませ、デパートに寄って洋服を買った帰りのことだった。

 本来は二人がかりで持つはずだったものすごく重い荷物を一人で抱えて「ちくしょーおかーさんの馬鹿っ」などと母親への恨み骨髄だった彼女は、いささか ぼーっと し過ぎていたのかも知れない。

 そいつは現れた。甚だ派手に、そしてそれ以上に超絶迷惑に。

「わっ、とっ。とっ、ととととととっ。あぁぁぁ、そこの人っ! 頼むからどいてくださいぃぃぃぃぃ!」

「………へ?」

 ──どがしゃあっ。

 ……きっとこの瞬間、馬鹿馬鹿しい毎日が更にパワーアップしたのだと思う。












「最低。」
 開口一番、思いっっきり言ってやる。遠慮も情けも慈悲も哀れみも、自分の中から一切 取り去って。

 ここは奈津美の家。自転車でぶつかってきた大馬鹿が、「すいませんでした」とか何とか謝り倒してついてきたのである。

(謝れば済むとでも思ってんの? この男っ!)

 謝らなきゃ気がすまないんですぅ、とか言っていたが、その程度で解放されると思ったら大間違いだ。

「すいません! 本っっ当にごめんなさい!」

 馬鹿丁寧に頭を下げてくる、『突発出現!! 自転車で体当たり☆男 』。

 確かにこいつはちゃんと怪我を手当てしてくれたし、割と手際もよかったと思う。しかし、あっちが悪いんだからそのくらいは当たり前。許せないものは許せないのだ。人間は理屈ではできていないのである。乙女に怪我をさせといて、謝るだけでチャラになるなどと思ってはいけない。

「ふーん。へー。ほー」

「すいません」

「………………」

「すいません……」

「………………」

「だからすいませんってば……」

 とことんしつこいタイプのようである。奈津美はだんだん面倒……いやいや哀れになってきた。仕方がない。

「ああぁぁぁ、もう! 許す! 許すからそんな捨てられた子犬のような目であたしを見るのはやめてお願いだから」

「え、ほんとですかっ?」

 突発出現自転車以下略男は、目をキラキラさせながら奈津美を見あげてきた。その目が嫌だというのに。いきなり「今の嘘」とか言ったらこいつは泣くだろうか。

 くるぅり。奈津美はゆっくりと首を回し、例の迷惑男を斜めに見る。

「ところで………」

「はい。何ですか? 向かい合って座ってるのに、わざわざ横目で見られると怖いんですけど」

 わざとやっているのだから当然だ。

「あの、相川さん? その座り方も、街に山ほどたむろしてる不良さんみたいで、なんか怖いですよ? ……あの?」

 だからわざとやっているのだから当然だ。

「……ふ、ふふっ、ふ、ふふふふふふ」

「………………」

 体当たり男は、もはや言葉もない。

「あのね☆ あたしの荷物を、食料を、洋服をっ! メタメタのズッタズタにしてくれた張本人さん☆」

「うわー、めちゃめちゃ怨念こもった言葉」

「許してあげる代わりと言っちゃ何なんだけど。頭の中でビッグ・バン起こして、今まさにあたしの口からあふれ出そうになってる愚痴の数々を! ………聞いて、くれないかしらっ?」

「言い方に有無を言わせぬ力がこもってるのは俺の気のせいじゃ……なさそうですね」

 ねちねちねちねちねちねちねちねち、ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち。

 待つこと五分。喋りすぎた奈津美はグロッキーに、今まで辛抱強く黙って聞いていた体当たり男は激しい耳鳴りに悩んでいた。

「とにかくっ………あたしが、言い、たいのは……! はぁ、はぁ………駄目だ、体力持たない。休憩………」

 奈津美はそう言ってしばらく息を荒くしていた(声まで出なくなったようだ)が、そのうち立ち上がって机に向かって何かを書き始めた。筆談してまで文句を言いたいらしい。根に持つタイプのようだ。

 ばんっ。奈津美は床に紙を叩きつけて、無言でそれを指差した。

 紙は今の衝撃でちょっと折れていた。ゆっくりと元の形に戻ろうとするその姿は、なんだか傷ついた生き物のようで微妙に痛々しい。

「なになに、『何の罪もないあたしが怪我したのに、なんであんたはピンピンしてんのよ! 間違ってる、絶対間違ってる』? なるほど気持ちはわかりますが」

 にっこり笑って、体当たり男は大胆不敵にこう言った。

「知ってましたか相川さん、天は弱い者の味方なのです。ああ神様、ありがとー。僕はこれからも良い子でいるわ。だからこのおねーさんから守ってくださいねっ」

「………………」

(右腕に痛みをともないつつ必死に書いた手紙への答えが、それ……?)

 ついさっきあんなにも腰の低かった男は一体どこへ消えたのか。急に態度を豹変させるのは人間として とても いけないことのような気がする。

「ごほげほごほごほっ。あー、やっと声出た。もー、あんたって非常識よね。普通あんな何にもないとこでコケたりする?」

「いやぁ、俺ならやりかねないけど……ってそうではなく。最近多いでしょ、困ったヒトたちが。他人(ひと)の自転車のブレーキ壊してイタズラをしていくのですよ。どーもそれにひっかかっちゃったみたいで」

 目の前で「へらり」とか しまりなく笑っているこの男がどんな被害に遭おうとこちらの知ったことではない。

「他人を困らせてこっそり喜ぶなんてソイツ変態じゃないの? ところで、腹立つからあんたのことサンドバッグにしていい?」

「あ、それきっぱりと嫌です」

「あんたのせいで買い込んだ荷物が駄目になってー、お釣りをちとばかし戴いてたのがばれてお母さんに怒られてー、それからそれから」

「……荷物駄目にした事は素直に謝るとしても、何でそこで相川さんの悪事まで俺のせいになるのかがすんっごく疑問なんですけど」

「うちは両親共働きなの。そうすると夕御飯はあたしが自分で作らなくちゃいけないの。んで、あたしあんたのせいで右腕に痣つくったの。わかる?」

「それはやっぱり俺に『つくれ』と?」

「大丈夫、誰もあんたにそんな期待してないから」

「失礼な! 俺は昔『クッキング渡ちゃん』と呼ばれた男! 料理なんてちょちょいのちょいです」

「フランス料理フルコース。作れるのなら許してあげよう」

「ごめんなさい俺が悪かったです」

「何でもいいから何かつくって」

「え……俺、これからちょっと用事が」

 ぎん。奈津美の視線が突き刺さったので、体当たり男はちょっと弱気になる。

「……ある、んですけどね……」

「さっきしつこく謝ってきた時、『何でもするから許して』って行ったのはどの口?」

「ああっ、しまったぁ、どさくさに紛れてついうっかりと!」

「自分の言った事に責任の持てない人間って最っっ低よね」

「ぐさ」

「さっき何でもするって誓ったのはその口よね」

「どき」

「人間関係って、思いもよらないところから崩れるのよねー。例えば人との約束を破ったりとか」

「ざく」

「約束、まさか守るんでしょ?」

「……慎んでそうさせていただきます、ええ本当に」

「だったら働け」

「ううううぅ。神様、哀れな子羊を救いたまえ」

 ──ぺし。

「いたいですぅ」

「叩いた後で言うのもなんだけど。そんな目で見たら神様が逃げるわよ可愛くない」

「わーん、神様が見捨てたぁっ」

「ま、そんなことはどーでもいいとして」

 奈津美の隣で、「そんな事……?」と恨みがましい声。無視。

「……どうだった? 転校初日の感想は」

 仕方なく聞いてみる。この男のせいで病院送りにされ、今日は学校に行けなかった奈津美なのだ。幸い大した怪我もなかったものの、あとから知らされた彼の台詞は彼女にとってかなりショッキングなものだった。

 さっきまで拗ねた振りをしていたバカ、もとい「奈津美のクラスの転入生」は、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「相川さんって優しー。さすがクラス委員♪」

 かくてバカは語りはじめた。












 突発出現自転車体当たり男、もとい渡辺裕輔、転校初日の朝。一年八組の教室は、転校生への期待と好奇心に包まれていた。

「ねえねえ、かっこいい人かなあ?」

「馬鹿、かわいい女の子に決まってんだろ?」

「髪はショート!」

「俺は長い方がいいなー」

「男の子だよ男の子! お近づきになりたいっ」

 教室の前のドアが開く。その音で担任の教師が来たことを知った生徒たちは、さっきより幾分静かになった。

 このクラスの担任は児嶋。割と整った顔をした若い男だ。

「起立」

 ざわめきが続く。生徒の八割方が、心ここにあらず、といった体である。季節外れの転入生だ、色めき立つのも無理はない。

「礼」

 関心の中心人物は、まだ教室に入ってこない。この何ともいえない間が、生徒達の心をますます高ぶらせた。「随分もったいぶった登場でしたねぇ」というのは、後に裕輔が語った真実である。

「着席」

 このままでは授業が始まってしまう。児嶋が何も言い出さないので、生徒達は痺れをきらした。

「せんせー、転校生どこ?」

「あんまりかわいい女の子だったからどっかに隠したとか?」

 耐えきれず、クラスの中でもとりわけうるさい男子達が先を争うように言った。授業開始のチャイムとともに眠りにつくはずの彼らが、こういう時だけ起きているのは実に興味深い謎である。

「隠……俺は変態か上村」

「転校生のハナシ聞いたのに、児嶋ちゃんなかなか出してくんないんだもん」

「気になるのか?」

 生徒が好奇心のカタマリになっているのを見て取り、児嶋は面白そうに笑みを浮かべた。どうやらこの教師、生徒の方から言い出すのを待っていたらしい。実は、裕輔が入ってくる時のあの妙な間は児嶋の趣味だったのである。

「そろそろ出してやってもいいか、生徒からかうのも飽きたし。おーい出てこい転校少年」

「はいはーい」

 廊下から聞こえる声。転校生の割に緊張感のない奴だ。

「なんか、ずいぶん態度でかい奴だよな」

「おまけにあの声、どう聞いても男だし」

「……俺、起きてて損したかも」

「そうだな。帰るか?」

 いきなりやる気喪失したらしい男子達が、教師がいるというのに堂々とサボりの相談を始める。

「お前ら……俺を教師と認めてないな?」

 ため息をつきながら、児嶋はあきれ気味に言った。「当然」というのはその後の生徒達の言である。

「せんせ、溜め息つくと年とるよ」

「また彼女に振られた?」

「あのな。俺は振られてないし、ずっと今の彼女一筋だ。変な誤解も噂も勘繰りもするな」

「恥ずかしげもなくよく言えるねそんな事」

「大人なんだ、お前らと違って」

「じゃあ同レベルで張り合うなよ」

「………………ι」

 裕輔はちょっと呆れていた。活気があっていいのだが、授業中にこれはちょっと元気すぎるのではなかろうか。

「あの……皆さん?」

 が、彼の声は騒ぎに掻き消されて聞こえない。

(転校生よりお喋りの方が大事ですかあなた達は。あーそーですか、めそめそいじいじ)

 裕輔は覚悟を決めた。

「楽しそうなところ邪魔しますが。俺を! 無視しないでくださいっ!」

 ──しーん。

 すごい声だった。何しろ、クラス全員での大騒ぎを一喝で静めてしまったのだ。あまりのすさまじさに、クラス中が茫然とした。肺の中の酸素を一気に放出したため裕輔の息も荒かったが。

「……俺の、紹介、は……?」

「あ? あ……ああ。忘れてた……」

 なんとなく気圧されたのか、児嶋も 幾分 反応が鈍い。

「俺、仮にも転校生なのに……事実上、今日の主役なのに……」

「わかった、わかったから拗ねるな」

 裕輔の恨みがましい(本人は「子羊のような」と半ば本気で思っているらしい)視線を受けつつ、児嶋は何とか返事をしてやる。この間ずっと固まっていた生徒達はようやく正気に戻った。それを見届けた児嶋がすかさず言う。

「こいつが噂の転校生だ。見ての通り可愛い女の子でもないし、アイドルグループの美少年でもない。噂を流すのは構わないが、どうせ流すなら真実にしとけ」

「傷つくなー、ぶーぶー。いじいじめそめそ」

 裕輔は拗ねたままである。さっきより悪化したという説も。児嶋は裕輔に向かってにっこりと微笑み、表情はそのままで生徒達に向きなおってこう言った。

「今何か聞こえたような気がするが、もう授業は始まってるから俺はもちろん無視する。聞いてやりたいのはやまやまなんだが、教師という職務上それは無理な相談だ。成仏してくれ渡辺」

「できるかぁぁ!」

「はっはっは、死んでも俺には取り憑くなよ。そこの佐藤なんかおススメだが」

 児嶋は裕輔の叫びを大人の余裕(本当か?)で受け流す。裕輔は力尽きて、思わず一番近くにいた茶色い髪の女の子に「……空いてる席……あります?」などと尋ねて戦線離脱してしまった。顔がいいからモテるんだろうなこの先生、とか、ちょっぴしどうでも良さそうなことを考えながら。

(早く平穏を手に入れたい……って、おや?)

 いきなりとばっちりを受けた当の「佐藤君」は、教卓の目の前の席という素晴らしい状況下で堂々と寝こけていた。

(あらー、若くてかっこいい先生と教卓でお見合いなどとゆードッキドキのシチュエーションで、よりによって寝るんですか君は)

 そういえば、こいつは確かさっきのサボり計画の共犯者だ。この騒ぎの中、短時間で眠りにつけるその神経の図太さ。思わず尊敬しかけた裕輔だったが、生徒の誰かの声で我にかえった。

「先生、授業。……始めないとこの騒ぎ、多分おさまりませんよ?」

 さらさらの髪、誠実そうな目、インテリっぽい眼鏡。

(あ、更にモテそうな人)

 裕輔の彼に対する最初の印象はそれだった。頭がよさそうな印象があるが、それが嫌味になっていないところがやっぱり嫌味である。

(いるんですよね、こういう人って)

 裕輔が自分に自信を失くしそうな程──俗に言う美少年というやつだ。

「実は僕も片手に漫画を持ってたりするんですが、止めないと読み始めちゃいますよ?」

 児嶋は思いきり肩を落とした。

「お前って実はそういう奴だよな皆神。他の先生の前じゃ優等生なのに、どうして俺には容赦なく本性見せるんだ」

「それは僕が唯一信用してる先生だからです。……光栄でしょ?」

「できればやめろ、俺が疲れるから」

「ははは、嫌だな、せっかく褒めたのに」

 トランプ、ゲーム、雑誌にコミックス。教室がいつの間にか「ザ・暇つぶしワールド」と化している。

「しまった、授業中だというのに教師みずから生徒に休み時間をプレゼントしてしまった」

「せんせー、プレゼントありがと。大事に使わせてもらうからねっv」

 裕輔のすぐ近くで、さっきの女の子が嬉々として言った。語尾のハートを気にしてはいけない。

「返せ。貴重な授業時間は俺の所有物(モノ)だ」

「使用済みでよければ返してあげる」

「……ゴミか? それ」

 二人の会話はそこで終わったらしかった。授業を始める前に、児嶋はとりあえず例の佐藤を起こしにかかる。

「あのさ転校生。ワタナベだっけ? あたし島田。座りなよ、隣の子休みだから」

 すっかり気力が尽きた裕輔に、さっきの女の子(どうやら島田というらしい)が話しかけた。なんだかもう、どうでもいいような気分になってくる。裕輔は彼女の言う通りその席に腰を下ろした。

「なかなか個性派ぞろいですね、このクラス。俺、なんか霞みそう」

「そうかもね。担任は児嶋ちゃんだし、かく言うあたしもあんまりフツーじゃないし」

 島田は不敵? な笑顔を浮かべた。

 彼女の髪は長めのストレートで、一度会えば忘れないような金に近い茶色をしていた。「さらさらで綺麗だなー」と裕輔は素直に感動する。

「でも安心すれば? あんたも十分変だから」

「そうですか……もういいですどうでも」

「転校早々やる気ないわねー」

「いいんです……しょせん転校生なんてその程度の存在らしいので、傷心の裕輔君はもう寝てしまいます。授業始まったら起こしてくださいね」

 でろでろし始めた裕輔を見て、島田は溜め息と共にこう言った。

「見上げた根性は気に入ったけど、残念ながら寝る暇はないみたいよ? 児嶋ちゃんの努力の甲斐あって、佐藤がたった今起きちゃったから」

「あぁぁぁぁぁ、もうちょっと寝ててほしかったなー佐藤君」

「渡辺騒ぐな佐藤二度寝するな皆神漫画をひろげるな。いくらホームルームだからってこれ以上時間を潰されてたまるかっ」

「おぉー、児嶋ちゃん開き直った」

 男子たちがはやしたてる。裕輔の隣で島田が言った。

「まぁ、児嶋ちゃんぐらい開き直った性格じゃないと、このクラスの担任やってけないかも」

「まぁ……そんな気も……」

「でも、担任が児嶋ちゃんじゃなかったら誰もこんなにつけあがらなかったかも」

「…………まぁ………そんな気も………」

 楽しい学校生活になりそうだ。わー嬉しいやあはは、とか無駄に空笑いしてみたりする。これは充実して……いるのだろうか。

「というわけで、やたらと元気なうえに教師の許可もなく勝手に席に着いてたりする態度のでかい転校生だ。こっちから仲良くしてやらなくても勝手に順応しそうだが、友達にしとくと面白いと思うぞ」

「………………」

「よろしくワタナベ。あたしのフルネームは島田美久ね」

「皆神直人だよ。遊びがいのありそうな人で嬉しいね、ふふ」

「……俺、佐藤な。まだ眠いんだけど……って、いてーな児嶋、フツー出席簿のカドで叩く?」

 起こしてやったんだ感謝しろと児嶋が言う。彼の言葉通り、確かに佐藤は完全に目を覚ましたようだった。

「あ、そういやお前誰? 俺寝てたから名前知らねぇや、はははははははは」

「……俺、佐藤君のキャラ好きかも」

「おう、ありがとよ。で、お前誰?」

「佐藤……オイシイわ、あんたって」

 他にも、岸本とか谷口とか池田とか河野とかいう声が裕輔に向かって飛んで来る。

(なるほど賑やかなクラスだこと)

 児嶋ちゃんと愉快な仲間たち。なんというかコレは……極めればかなり楽しいんじゃないだろーか。












 渡辺裕輔、転校三日目。一年八組では、男子の間でこんな会話が交わされていたという。

「相川さん来ないなー」

「そういえば、いないな」

「あの子かわいいよなぁ、しっかりしてるし」

「そうかもな」

 のんびりと何気なく「相川さん」がどうとか言っている男子。

 かたや、気のない様子で相槌を打つその友人。

 ちなみに渡辺裕輔十六歳は、この会話を聞いて肩から上着がずり落ちかけたという。

「あの。もしもし」

 裕輔の声は、特別大きいわけでもないのに周囲によく通る。近くの人間に向かってぼそっと言っただけなのだが、近くにいなかった人間にも聞こえていたらしい。

「何だ転校生、トイレなら教室出て右だぞ。ちなみに左に行くと女子トイレだ。行っても止めないが、お前は一気に有名人だろうな。右は箸を持つ手だぞ、念のため」

 裕輔の様子はかなり切羽詰まって見えたらしい。運動部のホープだという岸本の言い方は、親切心なのか単にからかっているのか全くわからない。

「いや岸本君そうではなく。さっき誰かが言ってましたが……」

 岸本君ってノリが児嶋センセイにそっくり……と思いながら、裕輔はぼそぼそと切り出してみる。

「何?」

 男子たちの中には皆神もいる。彼はことのほか裕輔を気に入ったらしく(からかい甲斐がありそうとか言っていた)、裕輔の様子に興味ありげだった。

 皆神直人はこのクラスの副委員である。他の男子たちの話によると、彼はクラス委員選出のとき、不幸にも女子の票を集めてしまったらしい。この時ばかりは、目立つ顔というのも大変だなと思う。

 みんなが促すので、裕輔は先を続けた。

「その『かわいい』相川さんって……誰?」

 わざわざ括弧でくくって聞いたのは、彼なりに思うところがあるからで。

「まぁ、渡辺君は知らないか。三日前から休んでるんだ。窓に近い席で……ほら、島田さんの隣の」

「それがその相川さんの席……ですか」

 心の奥で確信しつつも、裕輔は結論を導き出すのを避けていた。このクラスに相川は一人しかいない。そして確か、奈津美はこの高校の一年八組(本人談)。この情報の示すところは多分ひとつしかない、が。

「そう。委員長だよ、このクラスの。ちなみに僕は副委員」

 皆神はその綺麗な顔でにっこり笑った。

(あぁぁぁぁぁっ……)

 間違いない。『かわいい』相川さんとは「あの」奈津美のことだ。彼女は確かに可愛い顔をしているかもしれない。かもしれないがあの性格を考えると。

「あの……もしかしてその相川さんって、とんでもなく……」

「とんでもなく?」

「とんでもなく、ステキな性格だったりします?」

「ステキか。言葉の定義が非常に気になるな」

 岸本は妙なところにツッコミを入れる。その隣で皆神が「もしかして知り合いなの?」と怪訝な顔をした。その目が 一瞬 輝いたような。

「知り合いというか因縁というか……」

 なんじゃそりゃ、と佐藤が言ったので、裕輔は事情を説明してやった。

「なるほど。この辺の道を覚えようと自転車で市内探索していたら」

「暴走チャリで相川めがけて突撃したと」

「でもって相川さんに怪我させて」

「帰りがけに毎日メシ作らされてると」

『うっわ、かっこわりー』

「ヒトの恥を順を追って繰り返さないでくれます?」

 裕輔は情けない顔をする。ちなみにさっきのセリフは順番に、皆神、岸本、伊藤、佐藤、その他大勢である。

「傷つくぐらいなら最初から言わなければいいのに」

「ああっしまった言われてみれば!」

「新鮮な反応だなぁ。記録しておこう」

 呟きつつ、皆神はペンケースからシャーペン、鞄からは怪しげなノートを取り出した。ノートのタイトルは『渡辺生態記録』。丁寧な字ですっきりと書いてあるのが余計に怖いような。

「実は鬼畜ですね皆神君。るるるー……」

「キレイな顔してキツイだろ?」

 これは岸本。

「正体不明だよな」

 これは佐藤。

 みんなにいろいろと言われた当の本人は、くすっ、とどこまでも謎めいた笑みを見せた。

「大丈夫、ネジが外れてるだけ」

「皆神……お前怖い」

「心外だなぁ、僕はみんなが大好きなのに」

「顔色を変えずに寒いことを言わんように」

 腕をさすりながら(鳥肌が立ったらしい)岸本はうめく。

(皆神君って……)

 にっこり微笑まれてしまい、裕輔はなんとなく反応に困った。彼はどうにも掴めない。

「どうしてモテるんだこんなのが」

 伊藤が一人悔しがる。今更それを言ってもな、と岸本は冷静だ。皆神は天使のように再び微笑んだ。

「顔に騙されちゃ駄目だよね。ふふふ」

「いいよなお前は。そーゆー台詞が言えてさぁ」

 周囲の男子たちが脱力した。羨んでいるやら呆れているやら。

(皆さん顔のことで嫌な思い出でもあるんでしょうか? そんなに言うほど愉快な顔には見えませんが)

「俺は昔から、祐輔くん面白い人よね、としか言われたことないですよ」

 裕輔は場に合わせて言ってみる。なんだか哀れみの目で見られてしまった。

「……それは……ある意味一番救われないケースだな」

「最後までオトモダチで終わるんだよな」

「あはははは、はっきり言いますね どちくしょう」

「……お前ヘンな怒り方するなぁ」

 呆れたような感心したような呟きで、伊藤がちょっと苦笑いした。そんな同情いらない、と裕輔は思った。

「あ、そうだ。相川な、けっこう有名だぞ」

 いつのまにか完全にそれてしまった話題を、岸本が思い出して元に戻した。

「可愛いだけで有名になっちゃうんですか?」

 しまったすっかり忘れてた、などと思いつつ、裕輔も本来の目的(という程の事でもないが)に戻り、そこに佐藤が加わる。

「可愛いこと『でも』有名だよな」

「『でも』? ということは他にも……」

(……性格? ねぇ性格? やっぱり性格? どきどき)

 裕輔はたらたらと冷や汗をかいてみる。

「思い切った性格してるからなー相川は」

 岸本は呑気だ。それは確かに、と佐藤も呟く。

「渡辺は身をもって知ってるだろ」

「ええそれはもう。きっと今頃、右手のアザに俺への恨みでも込めてることでしょう」

 裕輔は肩を落として見せる。岸本が軽く笑った。

「あいつ中学の時から目立ってたんだよな、気ぃ強いから」

 困ったような顔をする反面、岸本は楽しそうだ。

「はぁ、それが高校来ても直らないんですか」

「あれがいきなり直ったら逆に心配するぞ俺は」

 ぶつぶついう様子を見ていると、まるで妹を心配する兄のようだ。

(……シスコン?)

 「そうか相川さんって可愛いのかぁ」。どうでも良さ気な新発見だった。












「……と。いう笑い話が」

「……ふーん……?」

 再び相川宅。人差し指をまっすぐ伸ばして、にこにこと説明する裕輔。

 裕輔が話したのは、「相川さんって可愛いよなー」という例の会話である。今は黙って聞いている相川奈津美だが、額に青筋が立っているのはおそらく裕輔の見間違いではないだろう。

「何だ、知らなかったなー。あたし、けっこう人気あるんだ」

 奈津美は割と冷静にそう言った──が、実はけっこう怒っていた。

「そういうわけで」

 裕輔が突然口を開く。意味不明である。

「何がそういうわけなのよ?」

「………………」

 何やら言いにくそうだ。

「何?」

「……言っても怒りませんか?」

「内容次第。ほらさっさと言う!」

 裕輔はやっぱり言い出さない。いい加減イライラしてきた頃、彼はぽつりと言った。

「部活……、やってもいいですか?」

「……なんであたしに許可求めんの? あんたの好きに……あ、そうか」

 そういえば、裕輔に食事を作れと言って脅したのは自分だった。……と、いうことは。

「あと三日。三日待って」

「え。いくら大した怪我じゃなくたって、三日後じゃまだ痛いでしょ?」

 意外な返答に裕輔の方がびっくりした。思いっきり「ダメ」といわれると思っていたのだ、逆にうろたえてしまう。

「大丈夫でしょ。別に作ってもらえなくても、あんたのお金で出前とるし」

「………それも嫌かな、うん」

 危うし小遣いピーーンチな感じだが、奈津美は気に留めてすらくれなかった。

「で、何部に入りたいわけ?」

「う……それが……」

「考えてないの? 決めてから言いなさいよ」

「いや、そうではなくて。実はイロイロな所から勧誘されてですね」

 奈津美は何かを感じ取った。嫌な予感がする。

「まさか……」

「……多分、そのまさかです」

「………………」

 嫌な予感、的中。

「ほら、見てくださいよこの怪しいパンフレット。心霊研究会、UFO探索愛好家の集い、サバイバル同好会……。まだいっぱいありますよ、ほら」

「………………」

「全部すっごいヤバそうじゃないですか。だから今、どれに入るのが俺にとって一番幸せなのか考えてるんです」

「……馬鹿? 断ればいいじゃない全部」

「いやー、うん。こういうのに入ってる人たちって何だかしつこそうだから、今のうちにどこかの部に入らないと諦めてくれない気が」

「変な偏見もってんじゃないわよ、当たってるけど。大体、『どこか』でいいなら全然関係ないトコでもいいじゃない」

「おお! 相川さん頭いい」

「あんたが馬鹿なのあんたが」

「ハートにざくり」

 奈津美はとりあえず、目の前の男は真剣にアホいと確信した。
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