Introduction
どこまでも続く海に、とても小さな島がある。小さな、小さな──けれど不思議と華やかな島。
サリトス島。子供たちの住む島。
島の住人は八人の子供達と一匹の狼、そして一人の老人である。
島の子供達は年をとらない。いつまでも子供のまま、何十年も転生を繰り返して生きている。その命の灯が消えるたびに、彼らは前より一つ年をとって生まれ変わるのだ。八歳だった者は九歳に、十歳だった者は十一歳に。島にいられるのは、十八歳までと決まっている。十八で死んだ者は、また三歳から生まれ変わる。
彼らは大人への成長を妨げられている。もう何十年も、何者かの意志によって。
彼らはそれでも、生きている。ずっとここで、生きている。
冬が来るたび、頭を悩ませてしまう問題がある。毎年結局決めきれなくて、いつも居たたまれない気持ちになるのだ。
もっとも、彼はそんなことで気を悪くしたりはしない。気にしているのは自分だけだ。それも知っている。
風が吹く。秋が過ぎ去ろうとしている。窓から入ってきては、容赦なく顔に吹きつける。その刺すような冷たい刺激が、季節が一刻の猶予もなく冬に近づいている事を知らせていた。
「今年こそ……何とかしなくては」
誰に言うともなく、カトレアは一人呟いた。
「スタン!なに薄着で外歩いてんのよ!」
暮れゆく空に、アリーネの威勢の良い声が響いた。半ば挑戦的ともいえる口調で怒鳴られて、前を歩いていた少年がうるさげに振り返る。その顔を、アリーネは少し離れた場所から覗き込んだ。
色素が薄いせいで淡い金に近い茶髪の、細身の少年。十七歳だから、アリーネより二つ年上だ。
(信じらんない。ほとんど半袖みたいなもんじゃないの)
スタンの服はかなり風通しが良さそうである。どう考えても、十二月の寒空に相応しいものではない。
「風邪ひくじゃない。さっきから雪降ってるわよ?」
言ってアリーネも寒そうに首を縮める。彼女の言葉通り、薄暮の空を飾るのは降りはじめた初雪であった。
「そんなに長く居るわけじゃない。すぐ戻る」
返る言葉は素っ気ない。アリーネは溜息をついた。
「早く戻んなさいよ。こっちでホットミルク作ったから」
諦めたように、吐き出す息と共にそう言った。
どうせ聞いていないと思っていたら、スタンは振り返って口の端を片方引き上げた。
「また死ぬほど甘いんじゃないだろうな?」
アリーネは腰に手を当てて胸を反らす。
「失礼ね。あたしを誰だと思ってるわけ?同じ間違いはもうしないわよ」
今度はスタンが溜息をついた。
確かに、アリーネの料理の腕は大したものだ。それは認める。家事をこなすのが趣味というだけあって、毎日食べても飽きさせない味が彼女の料理には保証されている。飲み物を作るにしてもそれは同じ事だ。しかし問題はそこではない。
「……聞き覚えのある台詞だな?」
口の端を片方だけ引き上げて、スタンがまた笑う。彼特有の、人をからかうときに浮かべる意地悪な笑みだった。
「うっ……」
アリーネは言葉に詰まって、苦し紛れにスタンを睨む。どうして嫌なことばかりはっきりと覚えているのだろう、この男は。
甘すぎるのが嫌いなスタンの分と、かなりの甘党のアリーネの分。ついうっかり砂糖の量を逆にしてしまった、という前科のあるアリーネは、間違いなく一言の反論もできない。
アリーネは今までに何度も似たような失敗を繰り返しては「次は大丈夫よ!」と根拠のない自信を振りまいていたのであった。要するに、彼女は極端にそそっかしいのだ。そのくせ、何でもきっぱりと断言する癖は昔から直らない。
また負けてしまった、と悔しがりつつ、アリーネはぼそっと言った。
「……ところで、何でこんなとこに居るのよ?」
「気分転換。さっきまで頭が活動停止状態だったからな」
「ふーん。あったかくし過ぎかしら、家の中」
「かもな」
この場合、家の中というのはアリーネの家のことだ。もっともアリーネだけでなく、女だけ他に三人の住人がいたが。
「じゃ、ちょっとだけ窓開けとく。……早く来てよ、冷めちゃうから」
「ああ」
軽く応えると、アリーネはとたとたと家へ帰っていった。
スタンも家へ目を向ける。温かさに慣れた体が、そろそろ寒さを訴え始めていた。
明るく跳ねる金茶色の髪。肩より長くて、少し天然の癖毛が目立つ。瞳の色も髪と同じで、くるくると表情を変える様子はまるで小動物のようだ。
カトレアは二つ年下の目の前の少女を見遣って、誰にも気づかれないくらいの軽い息をついた。
アリーネは可愛い。底抜けに明るくて、世話好きでお喋りだ。彼女がいると誰もが口数を多くする。何の気負いもなく、てらいもなく、彼女はいつでもムードメーカーになる。自然にそんな事ができる人間だ。それが時々羨ましい。
対するカトレアの瞳の色は、群青。わずかに藍を含んだ、肩までのつや艶やかな黒髪。底に強い意志を秘めた、夜の海の色の瞳。今まで会った誰もが褒め称えたように、その微妙な色合いは確かに美しかった。だが、そんなものは意味がないとカトレアは思っている。
(容姿は、与えられた財産だ。私はただ、感謝するだけだ。けれども、だからこそ──本質じゃない)
持って生まれた外見のみで判断されるのは、もとよりカトレアの望むところではない。
「スタンは?」
カトレアはふと尋ねた。夕食の準備をしていたアリーネが、肩越しに振り返る。外から戻ってきたばかりの彼女からは、湿った森の残り香が少しだけ漂った。
「外にいたわよ。でもすぐ戻るって」
「……そうか」
複雑な気分で呟いた。
カトレアの様子を見て、アリーネはからからと笑った。そしてふと気づいたような顔で、竃の火を止めてこちらへ歩いてくる。
「なーに? もしかして、まだ悩んでる?」
椅子に手を掛けて、カトレアの隣に座る。その様子が妙に楽しそうだったが、カトレアにはその理由がわからない。
「……ああ」
「大した事じゃないわよ、気楽に考えたら?」
「……いや、……その、私は……こういうのは苦手で。わからないんだ、どうしていいか」
カトレアにとっては大した事なのだ。アリーネのように考える事がどうしてもできない。悩んで悩んで悩みぬいてしまう。
「……お前は、悩まないのか?」
ふと思って口にしてみる。結果、余裕の笑顔のおまけ付きで返事が来た。
「悩む必要ってどこにあるの? カトレアがいいと思ったことをすればいいのよ。むしろ、この場合は『それが』いいの」
「……それが難しいんだ」
カトレアが眉を寄せるのを見て、アリーネはますます笑みを深くする。気がついたら、カトレアの背中をばんばん叩いて喜んでいた。
「相変わらず律義で可愛いわ―。カトレアのそういうとこ、大好きよっ」
律義で真っ直ぐで、不器用。
かなりの美人だというのに、カトレアはむしろ自分でそれを嫌っているところがある。彼女が男のような言葉遣いしかしないのは、性格ゆえだろうか。さばけた物言いが妙に似合う。けれども、アリーネは知っている。
(可愛いわよ、顔なんて関係なしで)
こんなにこんなに美人なのに、カトレアは、自分に対して臆病だ。誰より、何より、自分自身に臆病だ。もっと胸を張っていていいのに。そう思うから、アリーネはカトレアを見守っている。彼女が大好きで仕方ないから、そうすることが幸せなのだ。
「……アリーネ?」
カトレアは困惑したようだ。何がなんだかわからなかったのだろう。
その時、外から玄関のドアをノックする音がした。
「入るぞ」
低く声がして、外へ続くドアが開かれる。
「あ、スタンじゃない。もうちょっと遅かったら冷めるとこだったわよ」
「ああ」
自分の家のような気安さで、スタンは玄関からの短い廊下を歩いてくる。それを見計らって、アリーネはテーブルの上にマグカップを用意した。
子供たちは三つの家に分かれて住んでいるが、お互いの家を自由に行き来している。そのうち、食事やちょっとした飲み物などは、この家で摂ることが自然と習慣になった。これは単に、「料理といえばアリーネが一番」という仲間内の共通認識ゆえだ。とにもかくにも、他人の(しかも女の子ばかりの)家に入ることについて、スタンが抵抗を感じないのはそういう訳である。
島の子供たちは、それぞれがかなり親しい。彼らの間には、家族のような気安さの、けれど友人に近い独特の連帯感があった。
「ああ、美味いな」
外の空気を体ごと運んできて、スタンは無造作に椅子に座る。ホットミルクを口に運んで、彼は自然にそう漏らした。
「当然」
聞き慣れているはずの言葉なのに、アリーネは素直に喜んだ。彼女の功労に対して、スタンがちゃんと感謝を示してくれるのが嬉しい。彼の言葉は決して甘くもなければ優しくもないが、世辞を言わないゆえに率直だし、共に暮らす者としての情がある。
けれども、スタンはまた皮肉げに笑った。彼女の喜びに水を差すように。
「この前の失敗さえなければな」
「何でそういつもいつも一言余計なのよその口は!」
せっかく喜んでみせた途端、これである。何とかならないものだろうか、この男。
「……賑やかね。何を話してるの?」
台所にほど近い階段から、サリスが顔を覗かせた。少し首を傾げた拍子に、背中の半ばまである白金の髪が少しだけ揺れる。だが、彼女はスタンを見ると、小さな声で「いらっしゃい」と言ったきり黙り込んでしまった。
「あれ、ティーシャは?」
サリスの足元に誰もいないのを見て、アリーネが怪訝な顔をした。
ティーシャと言うのは、彼らの中でも最年少の五歳の少女のことだ。いつも誰かがそばにいて、危険がない様に見守っている。さっきまでサリスがその役をしていたのに、一緒の筈のティーシャが見当たらないのでそう尋ねたのだ。
「少し前にヤオが来て、散歩に連れて行くって言ってたの。少し、遅くなるって」
「また? ヤオってば、可愛がり過ぎ」
アリーネが少し呆れたように笑った。あのマイペース惚け惚けオトコは、ティーシャとやけに気が合うらしいのだ。
「……この間スタンがくれた物だな」
何気なくテーブルの隅に目を遣って、カトレアは思い出すように言った。
そこにあるのは乳白色の石だった。色違いの同じ物を、カトレアもサリスも、それからティーシャも持っている。つい最近、スタンが何かのついでだといってくれたものだ。
「……飾ってたのか」
隣でスタンが軽く呟いた。わずかに驚いた顔をしている。
「ああ、それ? どうせだから、いつも見るところに置こうと思って」
「……綺麗よね」
サリスがぽつりと言った。元々彼女はアリーネの話の聞き役だが、カトレアやアリーネといる時より緊張しているのはこの場にスタンがいるからだ。
サリスは彼と話すのが苦手なのだ。スタンの遠慮のない物言いのせいかもしれない。では嫌っているのかというとそれも違う。嫌っているならば、彼のくれた石を綺麗だと誉めたりはしないだろう。
「うん。ありがとね、スタン。たまーに気が利くわよね」
スタンは僅かに眉を上げて、どういう意味だ、と言った。それから少しだけ笑って、「まぁ、良かったな」とも。
それからまたしばらくして、スタンは席を立った。マグカップが空になったのだ。
「わざわざ注がせて悪かったな」
アリーネに言ってそのまま炊事場に向かう。スタンはいつも、片付けだけは自分でやるのだ。
「美味しかった?」
念を押すように、アリーネはスタンの背中に声を掛けた。
「当然、なんだろ?」
「まぁね」
スタンがまた笑った。
それからスタンはマグカップを洗い、それが終わると帰っていった。立ち去る足音が聞こえなくなった頃、カトレアがこんな事を尋いてきた。
「……アリーネは、決まってるのか?」
「うん。サリスは?」
「私は、まだ。何を選んでも違う気がして」
「……で、カトレアもまだなのよね」
アリーネは、ふぅ、と息を吐く。
(二人とも、何もそんな真剣に思い詰めなくてもー)
律儀というか、何というか。どちらにしろ二人とも考えすぎというものだ。いくら、スタンの誕生日だからって。
(………………)
ここのところ、スタンの胸中は複雑だった。
皆で何かを隠している。誰も何も言わないが、何か不自然なのは空気でわかる。
(想像はつくが……)
誕生日。自分が生まれた日。気づけば、それが間近に迫ってきている。
だが、それだけだ。この島では『普通に』年をとるわけではないし、何が嬉しいのかスタンにはわからない。
(どうしてそう何にでも騒ぎたがるんだ、あいつらは)
悪気などなく、むしろ好意の表れだとはわかっているが、自分にだけ秘密にされると面白くはない。理由がなんであれ、だ。
「スタン」
ドアの向こうで微かに音がして、聞き慣れた声が耳に入る。
「カトレアか。開けて構わないぞ」
「……邪魔させてもらう」
ドアをそっと押し開けて、カトレアが静かに入って来た。
「何の用だ?」
「アリーネに、紅茶をもらった。お前の分もあるから」
「それだけか?」
「ああ」
「暇だな、お前も」
「……。そうだな」
そう言って、カトレアは持ってきたカップに紅茶を注いだ。
アリーネと違い、カトレアは料理の類が苦手だ。というよりはむしろ、「やったことがない」といった方が正しい。紅茶を入れるところを見ても、あまり馴れた手つきではない。スタンが自分でやった方が上手いくらいだ。その視線に気づいたのか、カトレアは小さく苦笑した。
「……美味くはないだろうな、私が煎れたのでは」
「そんなものは、やってるうちに上手くなる。味はどうあれ、お前が淹れたもののほうがいい。俺はな」
スタンが淡々とそう言った。
「………………」
カトレアは一瞬呆けてしまう。
「どっちにしても、アリーネとは比べないほうがいい。アリーネが上手いのは、ありゃ、好きこそ物の何とやらだ。そういうことで、無駄に卑屈になるのは損だぞ?」
「……気づいてたのか?」
「お前は分かりやすすぎる」
まるでカトレアに合わせるように、スタンもまた苦笑した。だからカトレアは、少し笑った。
「そうだな。悪かった」
スタンのこの表情が好きだ。この顔で慰められると、何より安心できるから。
「俺に謝られてもな。勝手に羨まれてるアリーネの方がいい迷惑だろう」
あいつは多分気づいてもいないだろうけどな、とスタンが言った。見下す口調ではなく、ただ呆れているだけの声で。
「というか、アリーネには笑われた。そういうことなら、言い方を変える。──ありがとう、スタン。お前が飲んでくれるなら、下手な茶でも淹れたくなるものだな」
「………………」
スタンは一瞬絶句した。そう長くはなかったが。
ヤオは幸せだった。知らず知らずほわーんとした気持ちになる。
額にかかった黄土色の髪が、風に揺れた。
二人は森を歩いている。はぐれないようにとしっかり握り締めたティーシャの手は、体温が高くてとても暖かい。
「ヤオ、散歩ってどこに行くの?」
「着いてのお楽しみ」
「ふーん……?」
ティーシャの身長はヤオの腰にさえ届かなくて、実のところ手をつなぐとかなり歩きにくい。しかしそんな事はどうでもいいくらいに、ヤオはティーシャの可愛らしさに悩殺されまくっていた。
「……寒い?」
ふと、心配になって尋ねる。ただでさえ、吐いた息が片っ端から凍っていきそうな時期なのだ。彼女を連れ出したのは失敗だったのかもしれない。
「ううん。ぜーんぜん、へいき」
だがそれは無用な心配のようだった。ティーシャの意識は寒さよりも、昼から夜に近づいてゆく外の景色に興味深く向けられているようだから。
(珍しいのかな)
そういえば、こんな時間にティーシャを森に出したことは一度もなかった。危険だからと、暗くなってからは家の周りで遊ばせていたのだ。
「?」
そのとき不意に、つないだティーシャの手の力が強くなった。近くの茂みが、がさっと乱暴な音を立てたらしい。
木々を揺らす風、無気味に響く梟の鳴き声。月は冷たく青白く、まるで温度を感じさせない。まだ完全に闇に閉ざされてはいないが、二人を取り囲むのは夜の森の静寂だった。
しまった、とヤオは思う。浮かれすぎて忘れていた。ティーシャが怖がるのは当然だ。こんな夜はヤオにだって気持ちの良いものではない。
「──大丈夫だよ」
歩きながら顔を近づけて、優しく声を掛ける。ティーシャができるだけ安心するように。
ティーシャは不安げな顔で、こちらに目を向けてくる。もう一度、今度は前より確かな声でヤオは言った。
「大丈夫だよ」
さっきよりもしっかりと手を握り直して、今度は立ち止まって彼女を抱き上げる。ティーシャの呼吸が苦しくならないように気をつけて、自分の前に両手で抱え上げた。
両手が塞がってしまうが、そんなことはどうでも良かった。ここには彼らを害することのできる獣はいない。だから必要以上に身構える必要はない。
「……ほんと?」
ヤオの顔が近くなって安心したのか、ティーシャは僅かに緊張を弛めた。しかし今にも泣きそうな顔だ。
「ほんと。それにほら、僕はここに居るよ?」
ティーシャは束の間迷うような顔をした。
「ヤオ、いる? いなくならない?」
頷いてやると、ティーシャは曇らせていた表情を一変させた。
「それなら、だいじょうぶ。ティーシャ、怖くない」
一面の花が一斉に開くような、満面の笑み。
(か、可愛い……)
その様子がヤオを嬉しがらせたことに、ティーシャは多分気づいていない。
「もう少しだよ。もうすぐ見える」
それから少し歩いて、そろそろ疲れて眠そうな気配を見せはじめていたティーシャにヤオは声を掛ける。言葉通り、程なく道が開けた。
「あ……!」
期待通り、ティーシャは一瞬言葉を失った。眠気も吹き飛んだらしい。
「ヤオ! すごい……!」
白い月の光を浴びて、その泉は静かに輝いていた。
「驚いた?」
「うん! すごくすごく、びっくりした! ねぇヤオ、この色なんていうの、この色なんていうの!?」
ティーシャの声が大きくなる。興奮しているのだ。それを見たヤオはとても嬉しそうだった。
「琥珀色、だよ」
微笑んで、ティーシャをそっと降ろしてやる。彼女が今にも走り出したそうにしていることに気づいたのだ。
泉は、月光を柔らかに照り返して蜜の色に染まっていた。ティーシャはすぐさま駆け出して、あっという間に泉の淵までたどり着いてしまう。
「気をつけて。滑るから」
今更のように思い出して、早足でティーシャの隣に行きつく。
泉の深さはさほどでもない。岸近くはティーシャでも足が届くほどだ。だが、こんな寒い夜に泉に落ちたら、溺れることはないにしても間違いなく風邪をひく。下手をしたら心臓発作だ、危険過ぎる。
「近づきすぎると危な……え?」
目の前まで行って、彼女が泉に落ちることは有り得ないと気づいた。当たり前だ。泉の表面は、厚い氷の層を成していたのだから。
「うわ……。つい何日か前は、まだ水だったのに」
道理で寒くなったはずだ。無意識に、ヤオは両腕をさすっていた。
「ヤオ! 氷の中の、きらきらのきれいなの、何?」
ティーシャが氷の層の向こう側を指差した。それを見遣って、ヤオは後ろからティーシャを抱き込んだ。これ以上寒くならないように。
「石だよ」
「石?」
「そう。綺麗だろ?」
ティーシャがうんうん頷いた。ヤオにはそれが可愛くて仕方ない。
「……これをね、スタンにあげるんだ。もちろん、ティーシャにもね」
ヤオは悪戯っぽく笑った。ティーシャの笑顔を確かめるように。
とんとん、と響く控えめなノック。その夜、アールの部屋に珍しい客が来た。
黒目黒髪のアールは、夜の中に立つと闇に溶けるようだ。もっとも、ランプの光が切り取った限られた明るさの中では、彼の持つ光と正反対の色彩はむしろ目立つだけだったが。
「……サリス?」
「ごめんなさい、突然」
本当にすまなそうにサリスが言う。気にしなくていいよ、とアールは微笑った。
「ここに来たってことは、まだ悩んでるみたいだね」
「うん……何も思いつかなくて」
穏やかな物腰を崩さないアールは、相談するにはうってつけの存在であるといえた。話すだけで安らげてしまうところがある。
「アリーネは、考え込む必要はないって言うんだけど」
サリスは、アールとは普段あまり話さない。仲が悪いという訳ではないが、サリスは同じ年頃の男と話すのが苦手らしいのだ。
「それには、僕も賛成するけど」
それを圧してわざわざ来たという事は、本当に切羽詰まっているのだろう。それを察して、アールは親友の罪深さを思った。
「どうするのが、スタンは一番いいのかしら」
アールは一つ息をつく。アリーネの言う通り、深く考える必要はないというのに。
「サリスには、得意なものや好きなものがあるだろう? それを生かせばいいだけだ。たとえば、自分の好きなものを思い浮かべて、その中から相手の気に入りそうなものを探すとかね」
サリスは深く頷いた。
「うーん……うん、考えてみるわ。ありがとう」
「大した事は言ってないよ」
「ううん、十分。たぶん、見つかると思うから」
サリスはそれから束の間迷うような顔をして、呟くようにそっと言った。
「……きっと、わかってしまうわね、あなたには。あなたはとても鋭いもの」
「それは僕が鋭いからとか、そういうことじゃないよ。……同じ想いを、僕は知っているから」
「え?」
微かに、サリスは息を漏らした。初めて聞く話だからだ。
「好きな人がいたんだ。……いたんだと思う」
せつなそうに、それでいてどこか冷静に、アールは呟いた。囁くように。
驚いたようではあったが、サリスはそれ以上は何も言わなかった。もともと、彼女は他人の事を無神経に詮索できるような性格ではない。
「サリス。君は、昔の事をどのくらい覚えてる?」
「……何もわからない。でも、時々懐かしい」
「僕もだよ。大切な事は、何ひとつ覚えていないのに」
溜息が漏れた。時々感傷的になってしまうのだ、こんなふうに。
「……アールは、昔のことが気になるの?」
「そうだね、気になるのかもしれない。君は気にならないの?」
「気になるけれど、どうしても思い出したいかというと……よく、分からない。これって、いけないかしら?」
「いや、気にしすぎないほうがいいと思う。きっと、君にはそのほうがいいんだ」
「アールは?」
敏感に、サリスが聞き返した。
「……。大丈夫。幸せだよ」
正体のわからない喪失感だけがあるから、時々少し淋しいだけで。
そうしたらサリスは小さく苦笑して、そろそろ戻るわ、と言い残して出て行った。
(……泣くのは誰かな)
答えを知るのはスタンだけだ。
「シューダー。元気か? ……そっか、良かったな」
ヨルはシューダーの頭や首を撫でながら、上機嫌で笑顔を振り撒いていた。シューダーの側に居るだけで、ヨルはいつも幸せなのだ。
シューダーは狼だから言葉は通じないが、どうやらこちらの言いたいことを何となく理解してくれているらしい。ヨルにとっては兄弟みたいなものだ。それも、どちらかというと頼りになる兄。なんというか、魂が近い気がする。ヨルの赤い髪と、限りなく白に近いシューダーの灰色の毛並みとは色が違い過ぎたけれど。
狼を相手にこんなことを思ってしまうのは変だろうか。サリスにそう言ったら、そんな事ないわよと微笑んでくれたが。
悪戯心でシューダーの小屋に入ってみる。思いのほか広くて、これなら暮らせるかもしれないと本気で思った。
シューダーの小屋が大きいのは、単純に、シューダーの身体が大きいからだ。立ち上がるとヨルより大きい。
ヨルは十四歳にしては小さい方だが、一応百五十五センチはある。それでも身長では敵わないのだから、狼というのは元々大型の生き物なのかもしれない。
「夕飯持ってきたぞ。アリーネ特製生肉。……ってゆーか、これって料理じゃねえよな?」
ぶつぶつと呟きながら、ヨルは持って来た器の蓋を開ける。
アリーネは、シューダーの食べ物に残り物は使わない。そもそも彼女の料理を残そうなどとは誰も思わないし、残すこと自体をアリーネが許さない。だがそれとは話が別で、「シューダーには残り物」と言う発想をアリーネは好まないのだ。ヨルにしてもそれは同じである。
「でも、俺たちが料理するよりも、シューダーにはこっちの方がいいんだよな」
人間用に味を付けた肉と、シューダーの為に何の味付けもなしで生のまま出された肉の、どちらがシューダーにとって本当に美味しいのかは実のところわからない。だが、人間の食べ物に慣れさせるべきではないだろう、とスタンが昔言っていた。それならきっとそうした方が良いのだろう。
「……大事にされてるよな、お前」
ヨルはそっと笑って、またシューダーの頭を撫でた。シューダーがヨルに擦り寄る。彼の嬉しそうな仕草が、誰が一緒にいるときでもヨルには一番にわかる。
「知ってるか? スタンだって、いつもムカつくけど、お前が食欲なかったりするとちゃんと心配してんだぜ」
一人でそう呟いて、ヨルはシューダーの背中に顔を埋めた。
「そんで、昨日の話だけどさ。スタンの誕生日、近いだろ。俺、いろいろ考えんの苦手だからさ。……あれでいいよな?」
シューダーが甘えるような鳴き声をあげた。ヨルはそれを肯定と受け取ったのだった。
「……近いですね、スタンの誕生日」
膨大な蔵書を誇る、砂浜の上に建つある家の地下書庫に埋もれつつ、アールは隣の老人に話しかけた。
この老人、名をグリーグという。
アールはグリーグの年を知らない。だが、彼の顔中に刻まれた皺や落ち着いた物腰が、彼が過ごして来た年月の重さを何よりも如実に物語っていた。
彼はじろりとこちらを見て、まるで興味がないというように軽く首を振った。
「関係の無いことだな。それに生憎だが、私にはお前達の家まで歩いて行ける程の体力は残っていない。行くつもりもないが」
グリーグは煩わしげにこちらを睨む。
確かに、彼の家からアール達の住む場所まではかなりの距離がある。現在十七歳のアールでさえ、ここまで歩くのに一時間はかかる。しかし。
「それなら僕達がここまで来ます」
アールは怯まずに続ける。この老人が見た目ほど怖い人間ではないことくらい、長年の付き合いで知っているのだ。
「私はうるさいのは好かない」
老人の態度はにべもない。彼は人嫌いなのだ。
だが、子供達がここまで押しかけてきたとき、彼が決して嫌がっていないことは明らかだ。もっとも、彼の口から「よく来たな」などという台詞を聞いたことは今まで一度たりとてなかったし、きっとこれからも絶対にないのだろうが。
「主役はスタンですよ。それでも派手になると思いますか?」
それを聞いて、老人ははたと気付いた顔をした。
「……思わんな、確かに」
おそらくスタンならば、みんなが騒ぎすぎたらさっさと帰ってしまう。たとえ、彼が主役のパーティーであってもだ。パーティーのことはスタンにはまだ知らせていないが、きっと、知らせた瞬間は面倒そうな顔をすることだろう。みんなが一生懸命祝おうとしているものを無下にはしないだろうが、彼にとって疲れる催しであることは確かだ。
「それじゃ、決まりですね」
アールが念を押すと、グリーグは溜息と共にこう吐き出した。
「時々性格が悪くなるな、お前は」
この言葉に、アールは勿論笑って答えた。
「そうですか? まだまだですよ」
「お前ら……最近こそこそしてると思ったら、こういうことか」
全員総出でグリーグの家に着いたとき、納得がいったというようにスタンは呟いた。やっぱりな、と。
「何だ、知ってたの? つまんない」
アリーネが本当につまらなそうに言うので、にやりと笑って言い返す。
「知ってたわけじゃないが。こんな状況で気づかないとすればお前だけだ」
「ちょっとそれどういう意味よ?」
そのままだろ、と言ってやる。からかい甲斐があるのはヨルも同じだが、二人とも微妙に反応が違うから面白い。
「スタン。グリーグが待ってる」
「……あのじいさん、人嫌いなんじゃなかったのか?」
スタンが不思議そうに眉を寄せると、アールがにっこりと笑う。
「スタンのことは相当好きらしい」
アールはスタンにだけは丁寧な喋り方はしない。立場が対等だからだと、彼はただそれだけを言っていた。「皆と同じように接したらお前は嫌がるんだろう?」とも。それは確かにその通りだ。
「そりゃ、嫌な趣味だ。お前も共犯か?」
「そうとも言うね」
その台詞が、グリーグを巻き込んだのは自分だと証明していた。これについてくるのが、何食わぬ穏やかな顔である。
「じいさんが嫌な趣味なら、お前は嫌な性格だな」
人当たりが良く柔らかだが、そのくせ、自分のしたいことはするし、言いたいことははっきり言うのがアールだ。
「褒めてもらって嬉しいよ。お前に言われるなら合格だ」
「言ってろ」
けれども、スタンも決して不快ではない。
(俺は、昔から一人だったからな)
母親と妹以外の存在は、スタンにとって目にも入らなかった。その狭い、あまりにも狭かった世界を、緩やかに、穏やかに、けれどじわじわと溶かしたのがアールだ。だからスタンは、彼を友人として認識できた。あれが、初めての友人だったのだ。
「まぁ、そんなわけで。アリーネからどうぞ」
アールはにこりと笑って、アリーネにそっと目配せした。
「何はともあれプレゼントよね。ぐだぐだ言わずに受け取りなさいよ? はい、これ」
アリーネがスタンに歩み寄り、紙袋の中の何かを押し付けた。
「お前……。もうちょっと真面目に渡せ」
空けてみると、出てきたのはセーターだった。
「あんた見てるとこっちが寒いのよ。ちゃんと着てよね」
「ああ。お前の手編みじゃ、暑苦しいかもしれないけどな」
「ちょっとあんた、せっかくの好意に対して失礼じゃないの? ……あっ、ねぇ。そんなことより、カトレアよカトレア! 頑張ったのよ、今回!」
アリーネがきゃーきゃーと捲くし立てる。それは非常にうるさかったが、言いたいことはスタンにも伝わった。
「ああ。美味かったな。上達してる」
スタンがそう言うと、カトレアは照れ笑いした。珍しい表情だ。
「アリーネに教わったんだ。やれば本当に何とかなるな」
「お前が努力したんだろ?」
「その通り」
アリーネがうんうん頷いた。自分のことでもないのに、妙に誇らしげだ。
「いや……失敗だらけだったが……。その、食材を無駄にしてしまってすまない」
「何言ってんの。料理にはね、諦めない限り失敗なんてないのよ。もし美味しくできなくても、悔しい気持ちを覚えていれば、次はもうちょっとマシになるもの。あたしなんて、毎日その繰り返しよ」
「……やっぱり、アリーネは凄い。前向きだな」
「負けず嫌いとも言うな」
スタンが脇から余計な口を挟む。アリーネは、それを聞いて腰に手をあてた。
「ほっといて。その恩恵にあずかっているのはどこの誰?」
「悪いとは言ってない。感謝してる」
意外とあっさり、スタンは認めた。
「分かればいいのよ、分かれば」
「それじゃ、今度はティーシャの番! スタン、見て見て」
話の切れ目を見て取ったのか、ティーシャが目を輝かせてスタンの手を引いた。笑顔と共に、握り締めていた手のひらがそっと開かれる。そこには、琥珀色の石があった。
「あのね、月の夜にね、光が当たるとすごく綺麗なの。スタンにあげる、あたしとヤオから。あのね、ティーシャとおそろいなの」
「西の泉から持ってきたんだ、ちょっとだけ氷を掘り起こして。……どっちかっていうと、僕がティーシャに見せたかっただけなんだけどね」
そういう事でいいかな?と、ヤオはへれっと笑った。その様子が彼らしいといえば彼らしい。
そして、サリスから渡されたのは、意外にも推理小説だった。
「これ、お前も読むのか」
「……うん。割と好きなの」
彼女はそう言って微笑った。スタンにとって、彼女のこういう笑顔が見られるのは珍しい。
「少し、サリスとかぶったかな」
そう言ってアールが差し出したのは、古代語で書かれた小説だった。
「あ……ごめんなさい」
「君が謝ることはないよ」
アールはサリスにはそう言ったが、スタンに投げたのはこんな言葉だった。
「俺のものを適当に持ってきた。それでいいんだろ? お前は」
「ああ、間違ってない」
アールとスタンの間で、それ以上の気遣いは不要。気遣えば気遣うほど、相手の求めるものから遠ざかる。それを知っている。お互いに。
「三日で読破してやる」
こう言ったのは、アールがこの本を四日で読んだのを知っていたからだ。
「スタン。俺からも俺からも!」
元気な声が聞こえたと思うと、アールの後ろからヨルがぴょこんと顔を出した。
「ほら、果物。名前はわかんねーけど、お前が前に食えるって言ってたやつ。シューダーと一緒に見つけてきた」
「……ああ。珍しく当たってるな。確かにこれは食えるやつだ」
「お前、他に言う事ないのかよ!」
耳の横でぎゃんぎゃん喚かれたが、スタンは相手にしていない。
「まったく、ヨルはうるさくてかなわん。私が来たときくらい、そのあたりに縛り付けておけ」
そう言って眉を顰めながら、グリーグがぶつぶつと文句を言った。そう言いながらも口調に棘はない。どこまで本気なのだか。
そんな彼がくれたのは、スタンにとってはどこまでも予想通りのものだった。
「わざわざやるものなど何もないが……書架から好きなものをいくらでも持っていけ。私一人ではどうせ読み切れはしない」
「ああ。そうだろうな。寿命の方が早いだろう」
何てことを言うんだお前はと、カトレアがスタンを窘めた。当のグリーグは気を悪くするでもなく「まぁ、真実だな」と言った。
「というわけで!スタン。あんた、なんか言うことないの?」
アリーネがこちらを見てふんぞり返る。スタンはただ嘆息した。
「……暇だな、お前達」
他に言いようがあるだろうか。
「何よそれ……。もっと別の感想が欲しいんだけど」
アリーネが脱力するのが見えたが、スタンにとってはそれも本音だ。
礼欲しさに手間をかけたわけでないことくらい、知っている。スタンはただ、不思議に思うだけだ。彼らの好意の行き着く先が、ただただ真っ直ぐ、ただただ素直に、自分に向けられているということに。
(大した問題ではない、か)
こんなことを言ったところで、アリーネなどは笑い飛ばすだろう。驚くほどに真っ直ぐに育ったらしい彼女は、スタンのように思考が捩れることがない。自分で言うのも何ではあるが。
「スタン」
呼び掛けられて、振り返る。声の主はカトレアだった。
「……助けられたのは私の方だな」
「あれで助けたことになるのか?」
呆れたような表情が浮かぶ。その表情の中に潜んで、表現しにくい情のような、自分でも捕らえにくい何かが彼女の元へと向かうのを、スタンはちゃんと自覚している。
「……敵わないな」
そう言って、カトレアも笑った。
なるほど、つまらないことで悩むのはお互いに不利益だ。そう思って、スタンも笑った。
Fin.